弘道館跡地の碑
佐賀藩第10代藩主・鍋島直正は、17歳で藩主になると、自身が幼いころから藩主になるまで学んだ古賀穀堂とともに「教育改革」に着手します。優秀な人材の育成こそが、藩政強化に繋がるという強い信念のもと以前からあった藩校・弘道館の敷地を3倍近くに拡張し、本館や大講堂、武芸場、寄宿舎を設けました。
さらに、当時は、おもに父親の役職を引き継ぐ長男が藩校に通っていましたが、直正は長男に限らず藩士の子息すべてを入学させました。さらに、身分に関係なく優秀な人材を役人にする仕組みをつくり生徒の学ぶ意欲を高めました。
生徒たちは、6、7歳から通学生として学びはじめ、17歳前後で敷地内の寮に入り、朝早くから夜10時頃まで夜寝る間も惜しんで勉強しました。内容は自学自習の学び方で「論語」や「大学」といった中国の古い書物を丸暗記したり、生徒同士で討論したりしながら学問を深めました。
また、剣や槍といった武術の稽古にも励みました。それは、25歳までに学問と武芸の双方の合格基準に達しなければ、役職には就けず、さらに父親の給料を減らすという厳しいルールが設けられていたからです。
しかし、優秀な成績を修めると、江戸や大阪へ出て学ぶことができたり、藩の役人となる道が開かれたりしました。こうして勉強してきた生徒たちは、全国の優秀な生徒が集まる江戸の学問所でもトップクラスの実力を発揮しました。
その中には、明治の新しい時代の基盤をつくった、佐野常民や大隈重信といった偉人たちの名前もあがります。佐賀藩が近代化のトップを走り続けたのには、「人」を育てる「教育」が大きくかかわっていました。